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武蔵野航海記

武蔵野航海記

雄藩

昔の日本の度量衡は人間を基準としたものでした。

一石とは人間一人が一年間に食べる米の量です。

一石は1000合ですから、一日2.7合になります。

宮沢賢治の「雨にも負けず」では「一日に玄米四合と味噌と少しの野菜」を食べています。

若い男はそのぐらいだったでしょうが、老人や幼児も含めた平均では三合弱ということなのでしょう。

一反は米一石が取れる水田の面積を云います。

江戸時代の一反は300坪でしたが、それ以前は360坪でした。

一坪とは一人一日分の米が採れる面積だったのです。

米1石はだいたい1両です。

こういうことを考えると江戸時代の正貨は小判ではなく米だったということが出来ると思います。

武士は殿様から領地を与えられます。100石の侍とは米が100石採れる領地をもらうということです。

年貢率は江戸時代中頃からは40%ですから、実収入は40石です。

家族5人に男女の使用人が3人とすれば味噌・醤油や魚・野菜などの副食物をいれて17石が食費でエンゲル係数は42%です。

米以外の農産物は米に換算しました。麦1石は例えば米0.5石に相当するなどとして村の総生産高を決めたのです。

江戸時代後半の幕府の正式な統計では日本全体の生産高は3000万石で人口が3000万人となっています。

もっともこの3000万石というのは実態より相当過小評価されているようです。

江戸時代初めの年貢率は60%でした。百姓の手元には40%しか残らないので絶対量が足りません。

また藩が60%を持っていっても食べ切れません。武士と町人を合わせて人口の二割になりませんから。

江戸初期は大開発期でした。百年間で人口が2.5倍になりましたから、新田開発や堤防・道路建設など社会投資が盛んでした。

従って年貢の多くの部分は土木作業の賃金や、足軽・中間などの下級奉公人の給与として百姓に還元されたのです。

このように江戸初期は費用と収入がバランスして財政的には安定した社会でした。

17世紀を通じて日本の経済は量的に拡大を続けました。

人口が2.5倍になり農地も大幅に増えました。

しかし藩は領内の生産量の拡大を充分把握できていませんでした。

例えば伊達藩の正式な石高は60万石で、幕府に対する軍役や土木の手伝い、参勤交代の規模はこの60万石を基準に計算されます。

しかし江戸中期の藩の資料では領内の総生産高は120万石になっています。

伊達藩は幕府に対して脱税をしているということです。

さらに藩内の村の資料を集計したら240万石になりました。百姓は藩に対し所得を半分しか申告していなかったということです。

したがって年貢率は表面は40%ですが、実質的には20%の税率で決して過酷なものではなかったのです。

江戸時代の百姓は生存ぎりぎりまで搾取されていたというのが日本人の常識になっていますが、これは明らかに間違いです。

明治政府は江戸幕府を滅ぼして出来た政権ですから江戸時代のことを何でも悪く言います。

歴史を読むときには誰がそれを記録したのかということを考えながら読むのが非常に大事だと思います。

江戸時代の武士の生活水準を平均すれば百姓より貧しかったという研究結果もあるぐらいです。

17世紀の百年間で武士が贅沢になり参勤交代や幕府の命令による土木作業で支出が大幅に増えましたが、収入も増えていました。

だからこの段階の藩の財政危機もそれほど深刻ではありませんでした。

伊達藩では、初期は60万石の60%として36万石が年貢収入でしたが、百年後には120万石の40%で収入は48万石になっています。

ところが18世紀初頭の元禄のバブル経済がはじけた後は低成長経済に移行しました。

人口も横ばいになりました。量的拡大が止まったあとで経済の質的な変化が起きました。

近畿や瀬戸内地方など先進地帯では水田を潰して綿や菜種を栽培する畑になりました。

このほうが米よりずっと高く売れるからです。米などは九州や仙台のものを買えば済むことです。

綿や菜種といった原料を生産している段階では藩も「綿一斤は米何升に相当する」として生産量を把握し課税することも可能でした。

しかしそれが農村の中で綿を紡績して反物にし、さらには染色までして最終製品にするようになると実態を把握できなくなりました。

紡績、染色などが分業化してその途中工程が把握できなくなったからです。

こうなると武士は新しい工業製品を買って消費するために支出は増えたのですが、その産業に課税できなかったので収入は増えないという事態になりました。

このようにして時代が下がるに連れて幕府も諸藩も財政状態が悪化していったのです。

藩は社会の産業構造の変化についていけずに財政難に陥り、それが19世紀に入った頃には深刻な情況になっていました。

従来とは違う徹底した藩政の改革が必要なことは誰にも分かっていましたが、そのきっかけとなったのが外国の脅威でした。

1824年にイギリス人が水戸藩の領内に上陸して日本中が危機感を持ちました。

そして翌年幕府は無二念打ち払い令を出し、水戸の会沢正志斎は「新論」を書きました。

また清がアヘン戦争に負けたことが危機感をさらに募らせました。

軍備を充実するには財政を改善することが不可欠ですから負債の整理が大きなテーマとなりました。

そして幕府も諸藩も改革を始めました。

従来の質素倹約の延長のような中途半端なことしかしなかった幕府や藩の改革は失敗しましたが、幕末に活躍する雄藩の改革は効果を挙げました。

改革のポイントは、従来は把握できていなかった新しい産業を藩の経済政策に取り込むことです。

1838年長州は村田清風を責任者として改革を始めました。

この時点での負債140万両を整理するために長州藩は、藩自体が商人になったのです。

領内の下関は交通の海上交通の要衝でしたので、そこに物産総会所を設置し通過する船舶の荷物を担保にした高利貸しと倉庫業を始めました。

これにより八年間で債務の半分以上が返済できました。

薩摩の財政状態は極端に悪く、歳入が30万両なのに負債は500万両でした。

茶坊主上がりの調所笑左衛門が始めたのは奄美大島の砂糖の専売という直営産業と沖縄を経由した密貿易という商社活動でした。

これらの成功により以後新たな借金の借り入れを必要としなくなるまで年間収支が改善できました。

そして次に行ったのがこの500万両の踏み倒しでした。

具体的には利息をゼロにし、元本を毎年2万両づつ250年で返済するというものです。

250年間元本を支払い続けるとは薩摩藩自身も債権者も考えていませんから立派な踏み倒しです。

これにより大阪や江戸の多くの金貸しが破産したそうです。

薩摩藩と高利貸しでは社会的立場がまるで違いますから、大名の方から踏み倒しを宣言すれば高利貸しはどうする事も出来ませんでした。

しかし一度踏み倒すとその後は新たな借金が不可能になるので、年間の収支が黒字化し以後借金に依存しない自信が出来て初めて踏み倒しが可能になったのでした。

財政を立て直し軍備を拡充した大藩の多くは西国の外様大名でしたが、他にも福井松平家のような親藩もありました。

以後これらの藩は雄藩と呼ばれるようになりました。

自信をつけた雄藩は、今度は日本全体の危機に対処しようとして水戸藩主の斉昭の回りに結集しました。

譜代大名でない限り幕政に参画できなかったからです。

これらの外様や親藩の大名達は日本全体の政治を巡って従来の政策を維持しようとする井伊直弼を中心とする譜代大名グループと対立をしたのです。

雄藩の藩主たちやそれを支える武士たちには日本の政治の中で主要な役割を果たしたいとは考えていました。

しかし幕府を倒してそれに取って代わろうとは思っていませんでした。

藩という狭いところから抜け出して日本全体を考える視点が出来てきたのです。

これには水戸学と兵学が大きな影響を与えています。

1855年に幕府が欧米諸国と和親条約を締結し開国をするまでは、この雄藩同盟は一致した行動をとっていました。

しかしその後は結束にヒビが入ってきました。

アメリカや西洋諸国の威嚇に屈して開国をした幕府を外様の雄藩は尊敬しなくなり独立を志向するようになって行きます。

またこのときに起こった安政の大地震により藤田東湖が死に、以後水戸藩の指導力が低下したことも一因です。

一方水戸藩は熱心な攘夷の藩ですが同時に御三家です。

そのためにあくまで攘夷を主張するグループと幕府の方針に従っていこうとするグループに分裂してしまいました。

そして凄惨な殺し合いをして藩としての統一行動ができなくなり、歴史の表舞台から消えてゆきました。

前にも説明したように幕府の幹部も雄藩の藩主やその側近たちも開国が不可避であることは分っていました。

しかしこのことが分らずあくまで攘夷を主張する者たちもいました。

その彼らが実際に攘夷を実行したのです。

1863年に薩摩はイギリス海軍と戦争をし、翌年長州はヨーロッパ四カ国の海軍と戦争をして砲台を占領されています。

この戦争によって薩摩や長州はヨーロッパの実力を悟り、攘夷を実行するためには国力を充実するのが先だと考える様になりました。

長州が夷狄であるヨーロッパと戦争をして散々な目に会っているときに幕府は長州を潰すために軍隊を派遣しました。

これによって、幕府が日本全体の利益を考える政権ではなく徳川家の存続を優先するただの大名の一つだということを志士たちは悟りました。

さらに幕府は北海道を担保としてフランスから借金をし、雄藩を倒して中央集権国家を作るために軍備の拡張を始めました。

この幕府の行動が非常に危険なものであることを当時の志士の多くは分っていました。

ヨーロッパの諸国がアジアを植民地化する時の常套手段は、宣教師を派遣してキリスト教化すると同時に腐敗した支配者に金を貸して軍備を拡充させていたからです。

借金の担保に領土や関税徴収権など国家の主権の一部の譲渡を要求して次第にその国を蚕食して行ったのです。

このヨーロッパ諸国のやり方が日本の志士たちに知れ渡っていたのです。

フランスが幕府に接近しているのを見たイギリスは薩摩の実力に着目し、フランスへの対抗のために軍事援助を提案しました。

薩摩に金を貸すからそれで軍備を拡充し幕府を倒したら良いということです。

しかしこの提案の危険性を認識していた薩摩は断っています。

幕府には日本の独立を維持する意思も能力もないということが志士たちに分ってきました。

この時になって、幕府を倒して天皇を中心とする新しい中央集権国家を作ろうという討幕構想が出てきたのです。

そして彼らが幕府を追い詰める手段として使ったのが「尊皇攘夷」というスローガンでした。

幕府は徳川家の繁栄のために日本を夷狄に売るもので、幕府そのものが正統な政権ではなく夷狄だと宣伝したのです。

しかしこれはあくまで自分達の側に世論をひきつけるためだけで本気で攘夷をする気はなかったのです。

討幕派が「尊皇攘夷」をスローガンに掲げたときになって初めて浅見絅斎が「靖献遺言」に仕掛けた時限爆弾が作動を始めたのです。

いつの世でもどこの国でも支配層は保守的なものです。

いくら平藩士が討幕を考えても藩主や家老に幕府を倒す気がなければ合法的な形で藩の軍隊を討幕戦に投入できません。

体制を変革するには非合法な活動を正当化する理論が必要なのです。

そしてその理論を山崎闇斎、浅見絅斎が提供したのです。

山崎闇斎が提唱し浅見絅斎が継承した考え方は、個人が心を清く保っている状態では内心と宇宙の心は一体となっているから、その状態で出した結論は正しいというものです。

闇斎はこれを「誠」といいました。

「誠」の状態で出した結論は正しく、それに反する法律や常識の方が間違っているのです。

夷狄である西洋人は排撃しなければならず、彼らに屈した幕府も夷狄なのです。

夷狄である幕府を倒し天皇が政治を行う世の中が正しい状態なのです。

そしてその実現のためには藩や幕府の法律などは無視するべきです。

そして武士たるものは命を惜しんではいけません。

長州でも土佐でも全国いたるところで武士や草莽の志士が幕府を倒し天皇を中心とする世を作るために活動を始めました。

このように「尊皇」という思想と「攘夷」という思想が一体となった「尊皇攘夷」の思想は日本中で猛威をふるい徳川幕府の権威を崩壊させました。

ところが1865年になって「攘夷」という思想が消えてしまいました。

孝明天皇が外国と結んだ条約を承認したからです。

本来の日本の支配者だと考えられるようになった天皇が条約を承認した以上、幕府を夷狄の同類だと非難できなくなってしまったのです。

また攘夷をするだけの武力が日本にないことも多くの日本人に分ってきましたから「攘夷」の効果も薄らいでいたのです。

そして残ったのは「尊皇」という天皇が日本の正統な支配者だという思想だけになりました。

それ以後1868年の明治維新までの間、幕府と討幕の外様大名連合は天皇を自派のものにすることに熱中しました。

それまでは日本全土で無秩序な騒擾状態が起きていたのですが、その後は討幕派と幕府が京都の朝廷という密室で天皇を取り合う陰謀を繰り広げるようになったのです。

このような陰謀の最中の1867年に孝明天皇がなくなりました。

幕府を倒すことに反対だった天皇が討幕派に暗殺された可能性が極めて高いのです。

そして満14歳の少年が即位しました。明治天皇です。

その翌年の1868年に討幕派の側近に言われて出した討幕の勅令を手にした新政府軍と幕府軍の戦いが行われました。

最後の徳川将軍である慶喜は鳥羽伏見の戦場に天皇側よりはるかに多い大軍を率いて戦いましたが負けてしまいました。

そして時代は明治になりました。


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